元旦に気分が悪くなり嘔吐を繰り返したことで救急搬送され心筋梗塞と分かり緊急手術となりました。その後入院先から転院したことなどは先のブログで書いた通りです。
悔やんでも仕方ないのですが、結果として転院が死期を早めました。転院先での様子を伺い知ることができれば対応策も取れたのでしょうが、コロナ禍ではお見舞いが一切できず、父がどんな状態かを知る術がありませんでした。
病院から、父が何度か転倒したことで骨折の疑いがあることとそれに伴って食欲が無くなり点滴で栄養補給していると連絡を受けました。即母が病院に向かいました。父が衰弱していて「助けてくれ」と言ったと私に連絡をしてきたので、退院手続きをするように促しました。父の退院時にその病院の病棟に初めて入って驚いたのは、父以外は重度の認知症の方ばかりの病室だったことです。そのフロア全体がそうで、これでは父が逃げ出したいと思うのも無理はないと思ったものです。おそらく耳が遠かった父は認知症の方と同じように見られていたのでしょう。認知症の方を下に見ているわけではありません。ただ、思考力が衰えていなかった父にとっては我慢ならない状況が続いていて、限界に近かったと想像するに難くありません。
退院した時に当該病院の看護師さんから言われたことが印象的でした。『こうしてご家族さんがご自宅に迎えられる方は本当に稀ですよ」
そうでしょう、家でどうやってみたら良いのか分からないですし、介護保険でどんなサービスが受けられるのかを知らずには決断できませんから。とはいえ、父をサ高住に戻すのもどれだけサービスを入れた体制を作れるのか、施設のケアマネさんと相談してケアプランが何とかできました。3時間おきに介護サービスを入れて体位変換や給水などの内容を決めましたが、やはりそれでも家族の負担は大きなものです。私も泊まり込みで介護の手伝いをしましたが、家族がここまでやらなければならないのなら、一日3時間おきのサービスは何のためにあるのかと思わされました。
結局、サ高住に戻って3週間後に父は亡くなりました。訪問看護や訪問診療を入れて水分補給を図ったのですが、入院先でさんざ点滴の針を入れられて腕はあざだらけとなり、痛みで点滴を拒否したため、水分補給ができずに亡くなりました。それでも、一つだけ良かったと思えることは、調整は大変でしたが父の叫びの声を聞いて退院させたことです。退院した日は本当に嬉しそうで、家族が常にそばにいることが最高の状況なのだと思ったものです。そして、家族で看取ることもでき、入院先で寂しく亡くなることがなかっただけでも良かったなと思いました。
父の死後は、母のために様々な事務手続き関係を弟と私とで分担して処理してきました。昨日は遺族年金受給の手続きを兼ねて奈良に行って母の様子を見てきました。奈良も桜が満開で年金事務所に向かう途中の小川沿いに植えられた桜が咲き誇っていました。手続きを終えて、母にその説明などをした際に、母がポツリと漏らしました。「点滴を無理にでもすればもう少し生きていられたとM(私の弟)が言っていたけど、私は間違っていたのだろうか?」私は即座に「いや、お母さんはこれまでもお父さんに尽くしていたし最善をしていたよ。それにもしあの状態で長生きしても、お母さんが絶対に倒れていたはずで、それはお父さんの望むことではないと思うよ。だからこそお父さんも点滴を拒否したと僕は思っているから。自分を責める必要は全くないし、僕から見たらよくお父さんをフォローしたなと誇らしく思うよ」と伝えると『そう言ってくれてありがとう。少しホッとした」と小さな笑顔を見せてくれました。父は天国に行ったのだからあとは自分がこれからの人生を健康に気をつけて楽しんでくださいね、と話してサ高住を後にしました。
私が外に出て歩き始めふと母の居る階を見上げるとベランダに母が立って手を振っていました。私もそれに応えて大きく手を振り奈良駅に向かいました。父が亡くなった時とは違う涙が溢れてきたので、そっと目をぬぐいながら歩みを進めました。これからは母をフォローしなけらば、と思いながら。