最近は当ブログでのメンバー支援についての内容がほとんど無くなってしまいました。そして3分の2(それ以上かも)は私の趣味嗜好話しに偏ってしまい、そのせいもあってか閲覧数も相当落ちております。それはもう必然的にそうなりますよね。ただ、メンバー支援については、個人情報等を考慮すると書こうとする筆が進まなくなるのです。これ書いて良いのいけないの?と吟味すると『やめておこうか?』と無難な選択をしてしまい、結果メンバー支援についての内容が希薄なブログとなっていってしまいます。
活動系の内容は本サイトの別ブログで写真などと一緒にアップされる場合が多いので、私は今後この場では社会福祉情勢・学び・趣味嗜好に加えて、特定化できないよう配慮したうえでのメンバー支援について書いてみようと思っております。(元々面白くも無いのにさらにつまらなくなるか?)でもね、とりあえず会話を続けるという極めて女性的なスタイルで(これは良い意味で言っております)兎にも角にも一定のアップ数は確保していこうかと。やはり何も更新されないよりは、つまらなくても何でも新しい記事があるほうが良いのではとの考えに固執してます。
ここでようやく本題に入ります。
これまで作業班が違うために、些細に見守ることが希薄となっていたメンバーを、同じ作業班でじっくりみるようになって、あることに気がつきました。それは、職員は等しくメンバーに関心を持つものですし(当たり前のようでいて当たり前で無い場合もありますが)それ無くしてメンバー支援は成立しないのですが、間近で見守らないと気が付かないことは本当に多いということです。さらに言えば、間近で見守るだけではなく、職員から(メンバーにとって適度な距離感の)接近を計ることで当該メンバーの支援ルートが鮮明になるのではないかと思うのです。
今、私が強い関心を持って見守っているメンバーの行動を些細に見ていてある気付きを与えられました。それは、何かの拍子に床に落ちている小さなゴミを拾っている姿・他のメンバーの行動に表情を変えずとも作業台の下で握りこぶしを小さく挙げている姿・気にしているスケジュールを他のメンバーにズケズケ言われて思わず私に視線を送る姿等々から得られた気付きでした。そのメンバーの鋭敏すぎるほど繊細な感覚が見えてくるようでした。またそれ故の不安の大きさと、その不安に押しつぶされそうな時に限って現れる暴力とは表裏一体化しているのでは?との私なりの仮説を持って改めて接し始めています。それは、これまで注目してこなかったそのメンバーの繊細さを私なりに理解して汲み上げていく作業でもあり、その途上です。メンバーのどこにスポットライトを当ててみるかで人物像は全く異なったものとなりますが、私の反省は、このメンバーのほんの稀に現れる『暴力』に注目しすぎて切り子ガラス細工のように繊細な彼の感覚に寄り添ってはいなかったとつくづく思わされました。
ごく間近で、強い関心を持って、愛情を持って見守り続けることから、自ずと見えてくる地平が支援現場にはあるようです。